流行りものに手を出すのも偶には良いこと

学生時代まで、しょっちゅう小説やノンフィクションや紀行文やエッセイを読み漁っていた。

いわゆるティーンエージャーの年代で京極夏彦を読み耽っていた。魍魎の匣はもちろん傑作だったが、個人的には禅寺が舞台の鉄鼠の檻も好みだった。

というのも、(正確な意味はどうであれ)禅宗と妖怪を取り上げているのにそのどちらも理解できつつ物語が仕上がっているからだ。

…長い間読んでいないのでもしかしたらどこか勘違いをしているかもしれない。

 

さて。

学生時代は深夜特急にどはまりしていた。

しかし、ユーラシア大陸横断は望むべくもない。せめて日本列島を、と思ったものの結局は色々と自分にやらない理由を突き付けてだらだらと日々を過ごした。

他に、伊藤計劃の3作(死者の帝国は含める派)を読んで衝撃を受けたり、レーベルつながりで夏への扉の爽やかさに痺れたり、森見登美彦夜は短し歩けよ乙女で「京大入りたかったな」と思ったり。

けれど、たとえ何かの間違いで京大に入れたとして、己に何か小説的体験があったのかと尋ねると恐らくない。

何かあほをしでかす勇気はなく、こじんまりとした実行しかできなかったろう。

 

学生時代の後、今の会社勤めまで精神的にも環境的にも紆余曲折があったのだが、そのころはやたら小難しい本ばかり読んでいて、今にして思えば「遅れて来た中二病」とでもいうべきなのだろうか。

当時読んだもので印象的なのは坂口安吾の作品である。沈んでいた気持ちを更に突き放すようなものばかり読んでいたのでもしかすると裏目に効果が表れていたりして。

ただ、内容はほぼ忘れた。暗い気分の時代のものなど雰囲気は覚えていても内容は忘れてしまうものだ。

 

そして、今に至る。あまり、読書というものをしていない。

そもそも、俺は読書が好きだという自負があったし実際よく読んでいたと思うが、今の会社に入り読んだ活字本は10冊もないと思う。

色々と思うところはあるが、実は読書が好きなのではなく読書をする自分が好きだったのではと疑いたくもなる。

 

なので、本当に俺はイチビリなのか確かめるべく一旦流行に乗っかってみることにした。

※イチビリは関西で調子乗ってるとかかっこつけてる、といった意味合い

 

カズオ・イシグロの『日の名残り』である。

もう、カズオ・イシグロの文章って立ち読みしたときはぼんやりとした雰囲気、と感じていたので学生時代にも買わなかったのに、なぜ本を読まなくなってから手に取ったのだ?

それは、2月半ばにインフルエンザで倒れた時、病院の近くの本屋で手に取ったから。いや違う、買った時の状況はそうだが正確な理由は、ノーベル賞を著者が受賞したからだ。

 

俺は今までドラマ化!とか映画化!という本には手を出さないし、推理小説が好きでも東野圭吾は秘密しか読んだことがない。

逆に横溝正史は色々読んで、ジョン・ディクスン・カーもよく読んだ。しかし、アガサ・クリスティーは読んだことがない。

恐らく、みんなが知っているものは読みたくないというひねくれものである。

 

何故心変わりしたかは己もよくわかっていない節があるが、こうも活字を読まない生活の中でもう一回自分を探すためには流行りものを手に取るのも好い事ではないか、と思った次第である。

これも違うな…

もっと正確に書くと、前から文学的に評価が高かった彼の作品を読んでいるのを人に見られたときにどや顔できるからだと思う。しかも一般人にもちょっとは知られるようになったしね。

 

結局、中二病からは逃れられない。

悲しい定め。

 

けれど、面白いですよ、これ。意外に。

 

さて、これを書いている30分前に読み終えているが、久々に続きが気になって読み進めることができたので、きっと面白い小説だった。

久しぶりにこの感覚を得られたのは良い兆候だと思う。

 

流行りものに手を出す、というのも悪くない。初めての気持ちを思い出させる。

 

最後に、俺が一番好きな小説は、

中島敦の『山月記』です。

(高校の授業で出てきて以来、脳内ペナントレース10年連続首位である。そろそろ殿堂入りに加え終身名誉監督になる日も近い)

 買うなら是非岩波文庫版をお勧めしたい。知的で紙もしっかりしている。更に文字禍という古代メソポタミア?を下敷きにした作品など面白い作品がいっぱいである。

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

 

 

 

山月記・李陵 他九篇 (岩波文庫)

山月記・李陵 他九篇 (岩波文庫)